第一飛行クラブ 広島 グライダー

この記事は、元自衛隊教官で、長年航空自衛隊に勤務され多くのパイロットを育て上げられた澤井さんに、「これまでの経験を後輩パイロットにぜひ教えていただきたい」とお願いし、特別に寄稿していただいたものです。
現在は、退官され第一飛行クラブ広島で趣味として空を楽しんでおられます。
お忙しい中、記事を書いていただきました澤井さんに深く感謝いたします。
(C) First Flying Club HIROSHIMA  2001

第8回 「大上戸救出作戦」

1.ことのはじめ

あれは昭和50年9月ころ、新潟県の北端で山形県との県境付近の朝日連峰の谷での事。渓流釣りの2人が滝壷の上から転落負傷し動けなくなったから救出して欲しい旨の要請が県警にあり、その県警機動隊長から隊員5〜6名をヘリで現場近<まで運んで欲しいという要請がきました。救難隊長は張り切って、うちにもそのような能力があるから是非合同でやりましようと提案し、話がまとまったのです。当時私は部隊のNO.3でMU−2とT-34のパイロット兼安全班長という立場にありました。

2.作戦会議

 夜隊長から電話があり、飛行班長と二人で官舎にきてくれというので隊長官舎に集まり急遽作戦会議とあいなりました。現場は新潟県の北端の村上市から三面川上流の岩井又沢という狭い谷で、三人連れの東京からの渓流釣り仲間が尾根から谷に下る途中、足を滑らせて滝壷に落ちたらしく、仲間で怪我をしなかった若者が夜通し川を泳ぎ下って付近の民家に駆込み、警察に助けを求めたものだったようです。基地から5万分の1の地図を取り寄せて早速明日の作戦について協議を始め、取りあえず私が日の出とともにT一34で現場の確認に飛び、遭難者を発見したらS−62が救出に向かうことになりました。
この時S−62の1機は定期整備で名古屋の整備群に行っており、ヘリ1機で対処することになりました。

3.1日目
     
 後席に若いパイロットを乗せ、地上との連絡のためにトランシーバーをモニターしながら基地との連緒を取らせるようにしました。まだ薄暗い地上を見なから地図に従ってまず村上市に進出し、三面川沿いに上流を目指して飛んでいると、左手の崖の途中に滝を発見しました.滝壷の上にテントがあり、人かいるようですが負傷して動けないのか余り動きはありません。念のためもう少し上流まで行ってみましたが、他にそれらしいところはなく、先程のテントが避難者のものだと確信し基地に遭難者発見の第一報を送りました。基地から現場まで直線距離で約40マイル、T−34はTACAN(Tac tical Air Navigation)がなくADFしか装備していないので、地図上の距離で判断しました。
やがてS−62が現場に到着したので、避難者の位置まで誘導しました。S−62には機動隊員5名と救難員2名、山に許しい隊員1名を乗せており現場上空を数回旋回して確認させ、隊員を降ろそうとしましたが、崖があまりに急で下手に高度を下げるとローターが立ち木に当たる心配があり、かなり苦労しているようです。S−62は1250馬力の単発エンジンでありホパリンク能力に余裕もなく、着陸する適当な場所も見つからず、結局かなり下流の河原に着陸して隊員を降ろしたようです。

一万、別の救難員2名を尾根にスリングで降下させ、谷と尾根との両方から遭難現場にアプローチすることになりました。谷に入ってしまうと基地との無線が通じなくなる為、以後固定翼機は4000フィート以上の高度で基地との無線中継に当たりました。尾根に降りた2名は早くも現場に到着しましたが、動けない負傷者2名を2名の救難員で救出することもできず、結局全隊員の到着を待つしかありませんでした。後で分かったことですか、機動隊員5名は山の経験が全くなく、上空から見ていると違う谷にとりついてさかんに薮曹ぎしているので、トランシーバーで「もう1つ上流の谷ですよ」と教えたりしました。悪いことに上空から見て簡単に救出できると考えたのか持って行った荷物を谷底に置いて山に取り付いてしまったようです。

道のない山の中で薮澄ぎをするのは大変な労力が必要で、結局その夜全救助隊員が遭難者のところには到着したものの、食料も水も谷底に置いてきたため遭難者の食料を分けてもらうというなんともお粗末な結果になってしまいた。私はT−34の任務を終わりオペレーションルームに行くと家族が詰め掛けており、どんな様子ですかと聞かれるのですが、言葉で説明することのもどかしさを実感してしました。ビデオカメラもインスタントカメラも持ってなかったのを残念に思いました。その後、警察幹部の方が現場を見て隊員を激励したいといわれるので、今度はMU−2で暮れかけた現場上空を飛んで警察幹部の方がトランシーバーで地上の隊員を激励し1日日は終わりました。

4.2日日

 天候が悪くなりかけているので、今日こそは救出するぞとヘリも固定翼機も朝から入れ替わり立ち代わり飛んでいました。現場では立ち木で担架を作り、遭難者を谷底に降ろしてヘリで吊り上げようと試みていました。ちょっと開けた場所があると地上からヘリにホパリンクによる吊り上げの要請がありますが、やはりロ一夕ーが立ち木に当たる恐れがあるので、あきらめたようです。遭難者2名の谷底への搬出にほぽ1日かかり、暗い気持になりましたがも夕刻松島から応援に駆け付けた∨−107がなんとか谷底に滑り込み日没寸前にやっと救出を完了しました。

5.教 訓

 2日目に食料と乾電池をヘリから投下を試みましたが、斜面か急でいずれも現場には届かなかったようです。後にその状況を確認にチームを派遣しましたが、乾電池は落下の衝撃でぐちゃぐちゃにつぶれていたそうです。一般に山では下に降ろすよりも上に上げて尾根でピックアッフした方が楽だと言われていますが、一人の遭難者を担架に縛り付けてこれを移動させるのは大変な労力であり結局谷に降ろしてしましたが、実に多くの教訓を得ました。
後に遭難者の代表が挨拶に見えましたが、東京の小さな会社の社長とその従業員の3名で毎年渓流釣りを楽しみに山に入ったそうですが、この谷には道がなく、尾根からなんとか谷に降りようとしたのが無理だったようです。

 私が最初に現場上空を飛んだとき、テントから空を見上げて「これで助かった!」飛行機の赤い灯火がすごく印象的でしたという話しでした。日の出前に出発したので航空法どおり航法灯をつけていましたが、T−34には両翼端の他に機首のプロペラの下にも赤いライトがありまして、おそらくそのライトが目についたものと思います。

内容の割には苦労した救出でしたが、今は古い思い出となりました。


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