第一飛行クラブ 広島 グライダー

この記事は、元自衛隊教官で、長年航空自衛隊に勤務され多くのパイロットを育て上げられた澤井さんに、「これまでの経験を後輩パイロットにぜひ教えていただきたい」とお願いし、特別に寄稿していただいたものです。
現在は、退官され第一飛行クラブ広島で趣味として空を楽しんでおられます。
お忙しい中、記事を書いていただきました澤井さんに深く感謝いたします。
(C) First Flying Club HIROSHIMA  2001

第7回 「タワーリングキュムラス」

昭和52年か53年の夏のころと記憶しています。九州東海岸に発生した特大級の積乱雲(Towering Cumulus)についてお話ししましよう。
 
 当時私は芦屋救難隊の飛行班長としてMUー2に乗っていました。そんなある日、新田原救難隊のMUー2、Xー107が故障のため可動機がそれぞれ1機となったので急遽芦屋救難隊からMUー2、Xー107各1機を新田原に差し出せという命令がきました。MUー2は私が機長でまず経路のウェザーチェックのため先発し、Xー107は必要な機材等を搭載して少し遅れて出発しました。当日の天候は典型的な夏型の晴天でしたが、午後には阿蘇、九重方面で発生した雲が発達して積乱雲の発生が予想される状況でした。
 
芦屋、新田原間は直線距離で約107海里、MUー2だと巡航速度240ノットで30分ですが、Xー107の巡航速度は110ノットなので約1時間かかります。 新田原での待機は2時間ほどで終わり、撤収命令が出て私は九州の東海岸沿いに飛んで、延岡付近から内陸部に入り、英彦山を越えて芦屋が視界に入るところまで帰ってきました。 経路の天候は東海岸から10マイルくらい離れたあたりからまるで黒い雲の壁が立ち上がつたような特大の積乱雲が見え、なおも発達している様子でしたが、ヘリもなんとか帰られるだろうと判断していました。雲のトップは推定3万フィートかあるいはそれ以上ありそうなほどで、今まで見た事も無いような雄大なものでした。
 
 指揮所から積乱雲が急速に発達していて東海岸沿いのルートはヘリが飛べそうに無い為、そこから引き返して九州西梅岸ルートのウェザーチェックをするようにとの命令があり再び熊本方面に向かって全速力で飛びました。 久留米、大牟田は雲も少なかったのですが、海岸沿いに南下すると次第に雲が多くなり、
ヘリは新田原から都城方面に南下しそこから川内か阿久根方面に抜けようと苦闘している模様です。
 私は大牟田から水俣目指して南下しながらヘリに状況を知らせましたが、ヘリは串木野に向かっていると返事してきました。私もできるだけ高度を下げてヘリの飛ぶ空域の雲の状況を知らせてやりました。時々東の空を見ると先ほと延岡あたりで見た雄大な積乱雲がますます発達しているのが見えました。

新潟県の糸魚川付近は北アルプスが直接日本海に落ち込むところで、夏冬とおして積乱雲が発達するところですが、このときの積乱雲は私のパイロット人生でも初めて見るほどの雄大な積乱雲でそのときカメラを持っていなかったことが悔やまれるほどの雄大さでした。
以前八丈島から山梨に向かっていた自家用機が富士の裾野の山に激突して3名の方が亡くなられたようですが、パイロットにとってウェザーは切っても切れない縁があります。

天気図と気象項況の数字の羅列から飛行コースの天候を予測し、常に正しい判断を下さないと命がいくつあっても足りませんね。

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