第一飛行クラブ 広島 グライダー

この記事は、元自衛隊教官で、長年航空自衛隊に勤務され多くのパイロットを育て上げられた澤井さんに、「これまでの経験を後輩パイロットにぜひ教えていただきたい」とお願いし、特別に寄稿していただいたものです。
現在は、退官され第一飛行クラブ広島で趣味として空を楽しんでおられます。
お忙しい中、記事を書いていただきました澤井さんに深く感謝いたします。
(C) First Flying Club HIROSHIMA  2001

第22回 「事業用操縦士試験」           

1.経 緯

昭和42年、私は12飛行教育団でT−34の教官として勤務していましたが空幕からの指示で11飛教団、12飛教団のT−34、輸送航空団のYS−11、航空救難団のヘリで運輸省の事業用操縦士試験を受けることになりました。どういう事情があったのか知りませんが全員合格を目標とせよと言われました。おりから民間航空業界ではパイロット不足ですぐ使えるパイロットを欲しがっているようでした。 

2.試験準備

民間航空業界は急膨張期にあり、航空大学校、自社養成では間に合わず初級練習機課程は航空自衛隊に依託することになり昭和38年から11飛教団、12飛教団で6ヶ月120時間の教育が始まっていました。私も2期生の後半の応援、3期生の前半の教育に関わりました。学生は日航、全日空、東亜航空、農林水産協会等で1コース20名程度いました。他に海上自衛隊の初級教育も引き受けていましたので陸自の13飛行隊も含めて防府には陸・海・空・民間と4軍がそろっていると言われていました。ある日、日航仙台訓練所のビーチH−18が防府に乗り込んできて過去の試験問題や受験対策についていろいろ教えてもらいました。また、双発機の実地試験のデモにも同乗してみました。ともかく学科試験の準備が必要ということは分かりました。

3.試 験

学科試験で数名が落伍したと聞きました。12月21日から1週間で30数名の試験が行われることになり、東京航空局から2名、大阪航空局から1名、航空大学校から1名の4名の試験官と事前ミーティングを行い各課目のやり方について意思統一を図りました。彼らの考え方は大型旅客機を想定した「スロースロー ジェントリー」らしいと理解しました。小型ジェット機では旋回は60バンク4Gが常識ですがこれは頭を切り替えて操縦しないと合格しないということは分かりました。ジェット機のこの癖が直らず早い段階で脱落した人もいました。私の試験官は大阪航空局のM氏で、初日の風の強い中での基本操作が終わり帰投中「あなたのパイロンは少し違うね」といわれドキッとしました。飛行場に帰り最後に接地点の対面のダウンウインドでパワーをアイドルにして着陸する「180度アプローチ」で着陸し接地点の前後100フィート以内に接地して終わりました。試験官の講評は「メンターは完全に手に入っていますね。問題ありません」でした。当時、T−34ではパワーオフランディングで教育しており、民航側からは依託訓練生についてはパワーオンランディングを教えてもらえないかという要望が届いていました。

二日目、朝からところどころスノーシャワーが舞っている天気でしたが、示された航法訓練のコースは、防府、柳井、怒和島(ぬわじま)、松山で着陸してフライトプランを提出して防府に帰るというものでした。例のB−4版のフライトログを作り雪をよけながら柳井に向かいましたが、柳井から先はスノーシャワーでよく見えません。

そこで試験官にVFRでの松山への飛行は無理と判断しますと伝えたところ、「それではどうしますか」「防府に引き返すのが妥当と考えます」「いいでしょう。私がコントロールを持ちますから今までの風を考慮して防府までの計算をしてください」というわけで計算盤を回して5分ほどで帰路の計算をして予告したとおりの秒針までぴたりと飛行場に到着して終了しました。総飛行時間が2000時間を越えたころです。

「事業用操縦士技能証明書」2280号 昭和42年12月28日とある免許を受領しました。

4.感 想

昭和43年ころ、運輸省航空局長と防衛庁防衛局長の間でいわゆる「操縦士の民間航空への割愛」について年間25名程度を割愛するという協定が成立したという噂が流れました。それ以前にもどうしても民間に転出したい人は家庭の事情を理由に退職していつの間にか民航に入った人も何人かいました。ある日、飛行隊長室に一人ずつ呼ばれて民航転出の意思の有無確認が行われました。私はやっと飛行機が面白くなりこれからという時期ですから決まりきった航路を長時間飛ぶのは性に合わないと思ったので断りました。

昭和37年、浜松でF−86Fの教育を受けているころは20000フィート以上を飛んでいる民間機はほとんどいなかったと思いますが、主力はDC−6、DC−7のプロペラ機からDC−8、CV−880のジェット機に変わりつつある時期でした。

この割愛で日本航空に入ったかつての教官仲間に昭和44年に会ったとき話を聞く機会がありました。彼はDC−8でヨーロッパ線のアラスカから先の担当で半年くらいアンカレッジに駐在していてとにかく退屈で観光も仲間とのマージャンにもすぐ飽きてしまったと嘆いていました。そのころ彼はB−747の訓練を受け始めたと言っていました。その彼もすでに退職しています。

平成8年ころ、民間委託訓練生の最初の定年退職者が出始めたのでかつての仲間が一夜山口市の湯田温泉に集まり旧交を温めました。航空会社の自社養成のパイロット募集要件は大学4年卒業程度とあったそうですから昭和38年に26歳で教官をやっていた私と学生の年齢差は2〜3歳しかなかったということに気づきました。初級練習機の教官というのは学生から見れば神様にも見えるほどの技量差がありますが、課程が進むにつれてその差が小さく感じるようになるのは仕方ないことです。



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