第一飛行クラブ 広島 グライダー

この記事は、元自衛隊教官で、長年航空自衛隊に勤務され多くのパイロットを育て上げられた澤井さんに、「これまでの経験を後輩パイロットにぜひ教えていただきたい」とお願いし、特別に寄稿していただいたものです。
現在は、退官され第一飛行クラブ広島で趣味として空を楽しんでおられます。
お忙しい中、記事を書いていただきました澤井さんに深く感謝いたします。
(C) First Flying Club HIROSHIMA  2001

第18回 「気象 ”雪”その2」           

昭和51年の冬午前11時ころ、秋田県加茂レーダーサイトから新潟救難隊のオペレーションに災害派遣情報が入りました。たまたま私が電話を受けましたが、電気鋸により手首を切り落とした男性があり、秋田県では接合手術ができないので新潟大学まで運んで欲しいとの要請です。新潟救難隊は災害派遣の命令権がなく、入間の中部航空方面隊司令官の指揮を受けることになっていましたので、情報の中継をして様子をみることになりました。中部航空方面隊司令部の幕僚はジェットパイロットばかりなのでどのような判断をするかとみていたら、案の定距離的に近い松島救難隊に災害派遣命令が下りました。しかもMU-2は出動せず、V-107×1機のみの出動でした。

午後2時ころになって松島のヘリは雪雲のために山脈が越えられず松島に引き返したので、新潟から救出に向って欲しいと言ってきました。冬の日本海側の天候を知らない幕僚たちが地図を見て判断したのが裏目に出たわけです。3時間の遅れを取り戻すべく私がMU-2で経路のウェザーチェックをして、後続のS-62を誘導することになりました。
切断した神経や血管の接合はできるだけ早く手術する必要がありますが、S-62は巡航速度が80ノットしか出ず加茂サイトや私もやきもきしましたが、こればかりはどうすることもできません。

新潟から秋田県男鹿半島の付け根の船川港まで約120マイル、MU-2では30分ですがS-62は1時間30分かかります。港の広場には救急車が待機しており不安そうに人が上を見上げていますが固定翼の悲しさ、どうすることもできません。時刻は午後4時近く、すでに暗くなりかかっていますが、S-62のパイロットから周囲の障害物の有無を明るいうちにチェックしておいてくれと言われ、フラップを20度下げて120ノットで1000フィートまで降下してみると広場の東側に岸壁まで電線が伸びていましたが、まず着陸には支障がないと判断しました。S-62が患者と医師とアイスジャーを抱えた看護婦を乗せて離陸したのは午後4時30分ころです。私はすでに2時間以上低空を飛んでおり、急いで帰ろうとするとヘリのパイロットから「雪雲で視界が悪いからウェザーチェックしながら誘導してくれ」との要望があり、降りしきる雪の中を1000フィートで8の字飛行しながら飛びました。
夜間の雪の中を飛ぶとまるで白い矢が無数に自分に向って飛んでくる感じで、真暗な海面と境目の分からない雪雲の間をわずかな海岸線の明かりを頼りに飛びました。

当時新潟沖には海中油田の試掘をしている「白龍1号」という櫓があり、1000フィートで飛ぶと結構気にかかる高さの鉄塔がありましたので、とにかく海岸線を見ながら飛びました。IFRなら何度も雲中を飛んでいますが、暗夜にVFRでしかも1000フィートで8字やS字飛行を繰り返すのは結構疲れます。バーティゴ(空間識失調)に入らぬよう、半分は計器飛行です。

後にこの患者さんはうまく手がつながったと聞きました。 雪の中の飛行の思い出の一つです。

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