第一飛行クラブ 広島 グライダー

この記事は、元自衛隊教官で、長年航空自衛隊に勤務され多くのパイロットを育て上げられた澤井さんに、「これまでの経験を後輩パイロットにぜひ教えていただきたい」とお願いし、特別に寄稿していただいたものです。
現在は、退官され第一飛行クラブ広島で趣味として空を楽しんでおられます。
お忙しい中、記事を書いていただきました澤井さんに深く感謝いたします。
(C) First Flying Club HIROSHIMA  2001

第15回 「気象 ”雲”」           

昭和56年2月ころ、埼玉県入間市の航空救難団飛行群本部運用班長時代のことですが、調布飛行場を富山に向って飛び立った軽飛行機が立山付近で消息を絶ちました。半年後、雪が解けてから機体と乗員の遺体が発見されましたが、山に激突した模様で典型的な気象判断の誤りによる事故でした。RCC(Rescue Coordination Center 救難調整所)で第一報を聞いたとき、冬の日本海側の天気を知らない人たちだな、これは山に激突していると感じていましたが、まさにそのとおりでした。日本の冬は列島のほぼ真ん中の脊梁山脈を境に、西側は雪雲、東側は晴天というパターンが多く、東京は晴れだったが、富山は気象の数値的にはVFRが可能でも実際は違います。特に山の周辺は気流も悪く、下手に雪雲の中に入るとバーティゴ(空間識失調)に陥り、自らの姿勢、位置が分からなくなります。計器飛行の訓練を受けていれば対処できますが、小型機免許を取ったばかりではこのような天気の中を飛ぶことは無理だと思います。
 防府から入間まで飛ぶ時の難所は紀伊半島の鈴鹿山脈と伊豆半島の天城山脈または箱根越えで、たいていは雲が発生していて非力なメンターではいつも苦労しました。

 昭和30年代の航空路は、防府、岩国、高松、信田、河和、浜松、大島、入間というルートで飛びましたが、雲の下端が山にくっついていて飛べないときは潮の岬や石廊崎を回って飛んだことも何度かあります。雲の下を飛んでいるとき、私は前方が明るいかどうかで判断していました。前方が明るいということは雲に切れ間があり、そこから太陽が差しているわけですからまだ行ける、前方が段々暗くなっているようだと思い切ってコースか高度を変えなければそこは突っ切れないわけです。
 昭和40年代の冬に、ある日防府から浜松まで要務飛行を命ぜられ、若いパイロットと二人で出発しました。午後、燃料満タンで浜松を離陸し西に向いましたが、西鳳が強く、低空でも20ノツト1万フィートでは50ノットという予報を聞いていました。鈴鹿山脈の谷は雪雲が山肌に着いており、やむなく少し引き返してから高度を取って雲上を越えることにしました。ところが風が強いため時々見える地上はほとんど同じ景色で、計算してみると対地速度は80ノットくらいしか出ておらず、15000フィートまで上がりましたが燃料は半分近くに減っていました。時速120ノットということは約220キロメートルで、新幹線より遅い飛行機でした。燃料補給できるのは海上自衛隊の徳島基地ですが、かなりの回り道になるのでそのまま防府に向いました。
 
天気現象の影響は実は1万フィート以下が一番大きく、ジェット機の飛ぶ2万とか3万フィート以上は余り影響を受けません。新潟救難隊にいるころ、入間とか松島とか太平洋側への要務飛行があると真っ先に手を上げて喜んで飛んでいました。雪雲の下で太陽の見えない日々を過ごしているとたまには雲上に出て太陽を見たくなります。
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